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田植酒

1997年6月


春の遅い信州でも、五月中旬から田植えが始まり、六月に入る頃には田植えも無事終わっていることであろう。この季節になると、今年の機構はどんなか、水の心配の無い梅雨であって欲しいと思う。秋の米の出来映えと成熟を今のうちから心配しているのが酒造業者の宿命ともいうものであろう。

前にも書いたが、米の生産販売に五十年ぶりに新しい自由化時代を迎えたのが昨年の農家である。昭和十年に始まった、戦時下の食料の確保を目的とした食糧管理制度からようやく解放されたのである。規制されてきたのは、農家から始まり集荷業者、販売業者ばかりでなく、米を使用する立場の我々もまた消費者であり、一般庶民までがしばられていたのだった。

昭和一桁時代は世界中が大恐慌の時代であった。米国を始め、世界の経済界が恐慌状態であった。それに加えて昭和十二年に日中戦争という不幸な時代に入り、戦力の一部として農家の男性も出征するはめになった。世界の大不況の中で、米も米不足時代を迎える事になる。

そのような状況下で主食確保のための米穀管理法が施行された。生産者である農家でさえ、自分で作った米の販売が自由にできないのみならず、自分で食べる米さえ、人間数に比例して「保有米」を残して残りは強制的に国へ供出販売することが義務づけられ、自由にできないという時代にまで立ち至った。

戦争中、そして戦後も米を自由に持ち運びできないため、自分で食べる米を供出し、それを食券に変えて持ち歩いた。酒も人間一人に量を決めて配給されたものであり、外出をする時はそれを配給券に引き替えて持参するという時代もあった。宿屋へも米や外食券を持参しなければ宿泊もできないという不便な時代が続いた。

米の保有については、農家の自家用までも厳しく監視され、それを取り締まる経済警察官の力は大きかった。その監視の眼を盗んだ米の事が「暗米(やみごめ)」と言われ、都会の人や非農家が衣類や箪笥などと交換に米に替えたものだ。

そのような時代に、特別に支給される「特別配給米(特配米)」という制度があった。これは、産業の米と言われた「黒い米」すなわち石炭の生産に携わる人たちに配給された米である。日本では産業を優遇させるための燃料が極端に不足していた。日本でかろうじて自給できた燃料が石炭である。そういう重要産業にたずさわる人々の空腹はまさに「腹が減っては戦にならぬ」であった。そのために、米を特別に支給した。

同様に農家が優遇されていたものもある。田植えの頃の酒である。その名もズバリ「田植酒」といい、その酒に限って税率も安かった。覚えておられる方も多いと思う。石炭坑夫への酒の税率も安かったはずである。

五月に発売した「農村歳時記 田植酒」から、こんな昔話を考えてしまうのは、年のせいだろうか。それだけに、良い時代になったものだと痛感する。

 

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