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酒の値段(2)

1995年10月


少し前まで、といってもほんの数年前までであるが、酒は特級酒、一級酒、二級酒、と格付けされており、この格(級別)によって酒税の税率も大きく異なっていた。もちろん特級酒が一番高く、二級酒が最も安かった。二級酒よりは一級、一級よりは特級の方がわずかにアルコール分が高いが、その違いはせいぜい二%程度であった。今でもアルコール分によって税額が違うが、当時の級別の違いによる税額は、アルコール分の差以上に開いていた。

メーカーが製造した酒は、最初はすべて二級酒である。その中から地域での銘柄に対する需要も勘案して、メーカーが自己判断で級別の審査を依頼する。その機関は、各国税局の間税部の中の酒類審議会であった。酒類審議員は、国税庁の醸造試験所の醸造専門官や、国税局の関税課の中にある鑑定官室の専門家、各県にある食品工業試験場等の中の酒類専門官、業者の代表、杜氏の代表等の中から任命された。

製造されたばかりの酒は全て二級であって、酒類審議会に出されて審査を通ったものだけが、許可されて始めて特級酒、一級酒として売ることができたのだ。

しかし地方の酒は、銘柄力の差で特級、一級になれる酒でも、二級で売るしかない場合もあった。地方の良心的な二級酒は、灘や伏見の特・一級よりうまいと言われた原因はそこにあった。その点、信州の如く、良い酒が二級酒として安い値段で購入できた消費者は幸せだったというべきであろう。

特級酒という制度が平成三年二月に廃止になり、平成四年四月一日からは級別そのものが廃止になった。この級別制度は、戦後アメリカの占領軍のシャウプ税制の一貫として作られたものだ。酒の値段も全国一律の公定価格で定められていた。その基は、戦時中からの食品類の政府機関による配給制度にあった。戦時中は酒造米も飯米の配給制と同じに、政府から数量が割り当てられていた。出来た酒は酒類配給公団を通じて強制的に割り当て販売された。それは敗戦後しばらく続いた。

その当時には、特殊用途酒類と言われるものもあった。田植え・稲刈りの頃に、米作農家に特別に配給される酒や、日本の戦後の復興に重要な役割を果たした石炭産業の労働者などに税率を下げた分、値段が安い酒が配給されたものである。その制度が廃止されたのは、「もはや戦後ではない」と言われた、昭和三十年代の半ばであった。

酒の値段の事だが、敗戦直後の昭和二十三年の始めの「並等酒」(二級酒)の価格は五百円であった。そのころの日給は四十円〜五十円位ではなかったろうか。その後超インフレの時代が来て、所得も物価も数十倍に上がった。しかし、酒の値段は昭和四十年ですら五百十円が公定価格であった。ちなみに一級酒と二級酒の間に準一級酒というものがあった昭和三十五年に、一級酒は八百三十五円、準一級は六百七十円、二級酒は五百十円であった。

酒の値段は価格の面では優等生であろう。しかし、販売量が頭打ちの現在、このままでは業界の将来が案じられはしないか。

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